匠を訪ねて
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誰もが気軽に使える赤津焼を目指して

赤津焼 : 加藤大吾

2015年9月4日 青山スクエアにて制作実演中の加藤大吾さんを訪ねました。

赤津焼の匠:加藤大吾さん

赤津焼とは古くは奈良時代(700年代ごろ)から焼かれていた陶器。赤津焼が発展を迎えたのは安土桃山時代に織田信長によって工芸士を集めたことがきっかけだと言われています。その後、産業革命が起き赤津焼は更なる進化をし現在に至っているようです。

家業として延々と継がれている赤津焼

家業としては27代目、六兵衛としては3代目

家がもともと赤津焼を作っていたということもあり、子供のころから身近にあった赤津焼。

一番初めにろくろを触ったのは家のものではなく、小学校の時に授業の一環としてのろくろ体験がだったそうです。家のろくろは仕事に使うものだからこそ、親は子どもには触らせなかったのではと加藤さんはおっしゃいます。

車の免許を取ってからは・・・

車の免許を取れるようになると、夜中でも自由に行動が出来るようになったため、よく友達と一緒に自分の家の工房に忍び込んではろくろを回していました。親に見つかると怒られるので、深夜の12時や1時に忍び込んでこっそりと使い、ばれないように綺麗に掃除をして工房を出ていくということを何度か繰り返していたそうです。

ご両親は特に家業を継いでほしいということは言いませんでしたが、言われなければ言われないで気になるのが子どもなのかもしれません。加藤さんは気が付くと陶芸の道を進むようになります。

これまで分業制だったがこれからは・・・

加藤さんは釉薬を担当

加藤さんが所属する赤津焼はこれまでずっと分業制で陶芸を行ってきました。

例えば、ろくろを回す人、釉薬を塗る人、焼く人など。一つの工程を専門的に行うことで、その技術に磨きをかけてきたのです。

加藤さんは次男ということもあり、初めは赤津焼を離れて清水焼をしている人の下につきました。その時に教わったのがろくろ。ですが、清水焼きを始めてから3年ぐらい経った頃、父親が倒れたということで実家に戻ります。

長男が釉薬を担当していたので、加藤さんは初めは「ろくろを回す人」として呼ばれていました。ただ業界が厳しいということもあり、お兄さんがこの世界から出て行ってしまいます。そして、六兵衛を継ぐのが加藤さんとなり、釉薬を担当することになったそうです。

でもこれからは・・・

赤津焼の組合員も10人となり、分業制を続けることも難しくなってきました。昔ながらのやり方では、現在を生きるのは厳しいということもあったようです。

これまで職人が自ら営業に行くのではなく、卸問屋が間に入っており、そこから依頼が来たものを作っていくという姿勢でした。ですがこれからは、受注される前にオリジナルの作品をどんどん作っていき、自らの足で営業をしていくというスタイルに変えるそうです。

加藤さんはもともとろくろを回しをした上で釉薬の担当をしていたので、分業制がなくなっても苦労をせずにすみ、運が良かったとおっしゃっていました。

加藤さんの作る赤津焼は・・・

制作実演をしているときに、加藤さんに何を作るのが得意ですかと聞くと、「何でも作りますよ」と答えられました。

加藤さんにとって赤津焼は、一つの形にこだわるものではなく、求められるものを素早く作ることのようでした。

気軽に手に取れるからこそ陶器の入口の作品として

最後にこれからどういうものを作っていきたいですか?と聞いたところ、

「多くの人に気軽に使ってもらえるようなものが作りたい」とおっしゃっていました。

いわゆる「職人さん」と言われている人たちはどれだけ美しいものも作れるか、次世代に残せるような逸品を作れるかということを目指し高価なものを作る人が多い中で、加藤さんは少し性質が違います。

加藤さんは、
「高いものよりは、誰もが手にできるぐらいの価格帯で、
多くの人が思わず手に取りたくなるようなもの。
そして、今の人達が求めるトレンドをキャッチして売れるような赤津焼を作っていきたい・・・。
でもこれじゃあ、サラリーマンっぽいですかね?」

と笑っておっしゃっていましたが、今の人たちが求めるお皿やコップなどの陶器は、加藤さんのような感覚を持っている人の作品なのではないでしょうか?

トレンドをついていて更にお手頃価格で使い勝手がいい・・・陶器にあまり関心がなかった人の入口として加藤さんの作品は意味を成すようになるのではないかと思います。

※加藤さんの作品は、9月9日まで特別展「赤津焼十人展」にて展示中です。