2015.12.14

匠を訪ねて~上野焼 遊び心を忘れない上野焼の匠

2015年12月14日 青山スクエアにて制作実演中の熊谷守さんを訪ねました。

上野焼の匠:熊谷守さん

上野焼とは福岡県の伝統的工芸品の一つ。豊臣秀吉の時代に茶道具として作られたのが始まりです。徳川時代になると遠州七窯の一つとして選ばれるほどに、茶器としての知名度が高く完成度の高い作品が多くありました。

ですが、明治時代に入ると、廃藩置県によって窯が閉鎖され、一時期途絶えたかのように・・・。その後、明治35年に田川郡の補助を受け復活し、今に至っています。

 

陶芸の世界に入ったきっかけ

工業学校卒業後、機械関係の会社に就職

熊谷さんは子供のころから陶芸家になろうと思っていたわけではありませんでした。

工業系の高校を卒業後、機械関係の会社に就職。しかし入ってみたものの肌に合わず辞めたい気持ちでいっぱいだったそうです。

 

そんな時、農家を営んでいた父親から知り合いの家の窯元で働いてみないかとアドバイスを受けます。機械関係の会社よりはましだという気楽な気持ちで転職をしたのが、陶芸との付き合いの始まりでした。

 

 

陶芸ブームだった時代

熊谷さんが窯元で働くようになった頃は、まだ陶芸ブームだったそうです。

一番のピークは少し前ですが、それでもまだまだ盛り上がっている時代で、陶芸だけでも食べていけるだけの売り上げがありました。

 

陶芸をしたことのない熊谷さんでしたが、窯元で師匠に陶芸を教えてもらいながら、従業員としての日々を過ごします。

どこかで修業や勉強をしていたわけではないので、本当にこの窯元でゼロから知っていくことになりました。ですが、その窯元で7年働いた頃、窯元の主人からあることを言われます。

 

「独立した方が食べていけるよ」と。そこでようやく、熊谷さんは独立を意識して窯を買い、自宅で自分のお店を持つことにしたのです。

ただ初めは、お店と自宅を交互に行き来して、自宅での売り上げが給料と同じになってから完全独立をしました。それが守窯の始まりです。

自己流を突き進めていく他にはない上野焼

初代だからこそ自由に作れた上野焼

陶芸だけに限らず、師匠のいる窯で職人になると、師匠の意向にあったものを作るのが普通です。ですが、熊谷さんの両親は陶芸家でもなく、熊谷さん自身が窯を開いたので、誰かの意向に合わせる必要がありませんでした。

 

そのため、熊谷さんは上野焼らしくない方法で陶芸をしてみたいという欲求をそのまま実行したそうです。現在、上野焼で多いのはろくろの後に釉薬をかけて作るというもの。ですが、熊谷さんはろくろの後に化粧薬をかけて白くしてから掻き落としをします。

 

掻き落しは今の上野焼ではなかなか見られない作風です。さらに熊谷さんの特徴は、この花の絵。絵を習ったことはないものの、叔父さんが絵を描いていたので、その絵を上野焼に持ってきたら面白いと思い、叔父さんの絵を見よう見まねで書いていたそうです。

 

ですが数年たって、真似をするのも面白くないということで、自分流の花の絵を描いていくことに。今では、誰の作品かを見なくても、この絵を見ただけで守窯が作ったものだとわかるぐらいになりました。

上野焼の掻き落し

ただ、掻き落しは上野焼では初めての手法と思っていたものの、作り始めてから上野焼の歴史の本を購入した時、実は昔からあったことを知ったそうです。

 

現在、上野焼で掻き落しをしていない窯が多いのは、その手間の多さが原因ではないかと熊谷さんは言います。釉薬をかけるだけの上野焼と掻き落しでは、掻き落しを施した方が制作時間が3倍ほどかかるとか。だからと言って、値段を上げられるものではないので、コストはかかってしまうのがネックのようでした。

 

様々な上野焼

去年に生み出された作品

この作品は、失敗をした中から生まれた作品です。

同じような作品を作るコツをまだつかめていないため、価格も若干高めにつけています。

 

安定した作品になるまでは試行錯誤が続きますが、定番になるよう努力を重ねていくとおっしゃっていました。

 

珍しい赤の陶器

こちらの作品も偶然から生み出された作品です。

 

赤の釉薬を塗って焼いても赤色が出ないことがあるのですが、800℃で再度焼いてみると色が出てくることがあるので、焼こうと思って窯に入れていると、気が付いた時には800℃を越えていたそうです。

 

慌てて火を止めて、翌朝窯を見に行くと、マット状の綺麗な色が出ており、この作品が出来ました。この作品以外にも、今回は赤の陶器がありましたが、みな微妙に色合いが違います。

娘さんと一緒に作った作品

熊谷さんの娘さんは大学の彫金コースを習っていて、熊谷さんの守窯でも作品を売っています。

 

熊谷さんがスカートの部分をろくろで作り、そのほかの部分を娘さんが作った香炉。女性らしい可愛いものが多く、後継者になってくれたら父親として師匠として陶芸を教えたいと言っていました。

 

 

 

40年携わってきた上野焼の今後

上野焼に対する思いが変わる

熊谷さんの場合は、どうしても上野焼がしたくて入った業界ではありませんでした。そのため、一年の半分は上野焼をして、もう半分は大好きなバイクで旅行に行けたらいいとずっと思っていたようです。

 

ですが、最近になって、その感覚が少し変わってきたといいます。もちろん今でもバイクに乗ったりするのは好きですが、上野焼をしている時間の方が楽しくなってきたのです。

上野焼を作っている時間が、最高の暇つぶしだと笑いながら話してくれました。

 

これから作っていく上野焼は・・・

最後に、これからの作品はどんなものを作っていきたいのかと聞いてみると、「守さんの作るものは凄い!」「意表をついていて面白い!」というような感想を貰えるようなものと答えてくれました。

作り手に遊び心がある方が、買う側もワクワクしながら手に取ることができるので、陶器で笑顔を作っていける熊谷さんのファンはこれからも増えていくのではないかと思います。

 

 

そんな熊谷さんは現在青山スクエアで12月16日まで匠コーナー「上野焼 熊谷守 作陶展」にて展示を行っています。

また熊谷さんはブログも書いていて守窯日記というのがありますので、ぜひ覗いてみてください。

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