匠を訪ねて~備前焼 好きなことを仕事にするということ
2016年4月11日 青山スクエアにて制作実演中の猪俣政昭さんを訪ねました。
備前焼の匠:猪俣政昭さん
備前焼は六古窯の一つで、平安時代には既にあったと言われています。岡山県の伝統的工芸品で、無釉で焼き上げるのが特徴の一つです。
登り窯で焼くことが多く、「窯変(ようへん)」「胡麻(ごま)」「棧切り(さんぎり)」「緋襷(ひだすき)」など釉薬を使っていないものの様々な表現方法があります。
サラリーマンに向いていない自分
この世界に入ったきっかけ
猪俣さんがこの世界に入ったのはサラリーマンには向いていなかったからだそうです。
学校を卒業し2年ほどサラリーマンとして働いていた猪俣さん。ですが、仕事が嫌になり上司に「辞めます」と言ったところ、引き留められもせずに「どうぞ」と言われてしまいます。
あっさりと会社を辞めてしまったのち、猪俣さんが向かったのは愛知県窯業訓練校。元々焼き物にも興味があったため、もうこれしかないと思ったそうです。
時代の流れに沿って
愛知県窯業訓練校を卒業した猪俣さんは、大谷焼の窯元へ行きますが空気感が合わずに飛び出し、友達に勧められた備前焼の窯元陶正園へと向かいます。
当時の陶正園では、修行中であってもちゃんとお給料が出ました。元々猪俣さんは伝統工芸の世界では、修行中の人は無給で働くのが当たり前というのがおかしいと思っていたので、ここでならという気持ちで修業に励みました。
猪俣さんがこの世界に入った時はまさしく陶器が高値で売れる時代。感覚として早く独立して窯を開いた方がいいと思った猪俣さんは、3年後独立を決意します。修行期間は短かったものの、芸術ではなく商売としてこの業界を見ていたので、行動に踏み切れたのでしょう。
運と実力の狭間で
何もかもが初めての中で
独立した猪俣さんは苦労しながらも、登り窯を購入し窯を開きました。
修業をしていたので知っていることもあるものの、実際に自分一人の手で全てを行うとなると勝手が違うものです。それでも猪俣さんは持ち前のポジティブさで、解らないことにもどんどん挑戦していきました。
そして初窯で出来た備前焼は、新聞にも取り上げられ比較的高い値段で取引されたのです。
無名の窯元がたどる道
ですが、初窯の時は売れた商品も、二回目三回目には売れなくなってしまいました。
世間がいくら工芸品ブームであっても、有名でもない若手の商品に興味を持ってくれなかったからです。
猪俣さんはこのままではダメだと思い、とにかく自分のことを世間に知ってもらおうと、あらゆる場所に出かけるようになりました。例えば百貨店であったり、展示場であったり、ここ青山スクエアであったり。
その場その場で人の縁が広がっていきました。もちろん、その場でどんな人と出会えるかは運によるところが多いのですが、出逢えた人たちに生かされて今に至っているそうです。
今、商品を買ってくれる人たちは・・?
猪俣さん曰く、備前焼を好きだと言ってくれる人の年代は60~70代の人だそうです。実際に若い時にたくさんの備前焼を買っていたので、目利きもあり厳しい言葉も言います。若手の備前焼の匠たちも、そんな人たちの話を真剣に聞いて、期待にそうようなものを作ろうとしているようです。
でも、猪俣さんは「本当にそれでいいのか?」と疑問に感じています。確かに、60~70代の方たちの目は確かかも知れません。ですが、彼らは新しい備前焼を買おうとしているのでしょうか?
答えは否。
もちろん買おうとしている人もいるかもしれませんが、ほとんどの人たちはすでに備前焼をたくさん持っており、どちらかというと処分していかなくてはと考えている人の方が多いのが現実。
では、いったい誰が購入者なのでしょうか?
まだ目利きはそんなにないかもしれませんが、新しいものを欲している、そしてそこそこお金も持っている30代。彼らの話を聞いて、彼らが欲しいと思えるような作品を作ることで、売れる物が出来ます。
猪俣さんの周りには、「商品が売れない」と嘆く若手が多いそうですが、購入者が誰なのかをはっきりさせて、そこのニーズに合ったものを作っていれば、食うに困ることはないと言っていました。
備前焼の一生
「備前焼西蔵坊窯 猪俣政昭 作陶展」
今回、取材をさせて頂いた猪俣さんは、4月13日まで青山スクエアで展示会を開いています。
普段は岡山県瀬戸内市にいますので、話がしてみたいと思った方は連絡してみてはいかがでしょうか?きっと楽しいお話を聞かせて頂けると思いますよ。