匠を訪ねて~伊万里・有田焼 有田焼細工人の中に見出した自分の生き様
2017年7月3日 青山スクエアで匠コーナーに出演中の矢鋪與左衛門さんを訪ねました。
伊万里・有田焼:矢鋪與左衛門
有田焼は1592年に豊臣秀吉が挑戦出兵した時の当時の佐賀県藩主・鍋島直茂の家臣である多久長門守安順が連れ帰った朝鮮人陶工が、有田町泉山で良質の陶石を発見し、日本初の磁器が焼成されたのが始まりです。
有田焼は現在でも分業化が一般的。というのも、一つ一つの工程の難易度がとても高いからという理由と技術漏えい防止の二つの役割があります。
陶芸との出会い
前職は地方公務員
矢鋪さんはもともと福岡県の地方公務員でした。
地方公務員と言っても警察官だった矢鋪さんは、職人さんの中でも異色な経歴を持つ方だと思います。
警察官は組織としてのまとまりが強く、矢鋪さんが就いていた頃も年功序列、そして階級が一つでも上なら命令を全て聞かなくてはいけないような組織だったそうです。
理不尽なことが日常茶飯事のようにあり、このままではいけないと思った矢鋪さんは夜間の学校に通って進級試験を受け、部下を持つような立場にまで登っていきました。
28歳の頃には課長に昇進し、55名の部下を持つようになりました。
ですが昇進しても理不尽な環境は変わらず、周りの課長たちが部下を犠牲にして上り詰めていく世界を見て違和感を覚えました。
課長の仕事は、部下が仕事をしやすい環境を整えてあげることだというのが、矢鋪さんの考えだからです。
この世界は、あまりにも自分の性格とは違い過ぎると感じた矢鋪さんは、妻の実家がある佐賀県の伊万里をふらっと歩いた時に、陶芸に出会ったのです。
魅せられていく陶芸の世界
選択肢は農業、漁業、工業
警察官を辞めることを考え始めた頃、矢鋪さんは次の職業を何にするのかと考えました。
自分にできることは「農業」「漁業」「工業」のどれかだと思い浮かべましたが、農業をするには畑が必要、漁業をするには船が必要、では工業は…と考えた時に、伊万里で出会った陶芸のことを思い出したそうです。
矢鋪さんは伊万里の工房を訪れ、弟子入りを志願しました。
その後、警察官を辞めた矢鋪さんは色々とあり、最終的に清六窯に15年間お世話になることになったのです。
独立後はテーマパークで
矢鋪さんは独立後、有田ポーセリンパークから声がかかり、お客様の前で実演をすることになりました。
修行中は一般の人に見られるということがなかったので、初めのうちは戸惑うこともあったそうです。ですが毎日毎日見られているうちに、お客様の細かな動向も分かるようになっていきました。
たとえば、見ているだけだと簡単そうに感じられる人がいたので、実際にはどういうものかを知ってもらおうと制作体験を始めてみたりなどです。
約5年ほど、ここでお世話になり、陶芸体験合計約16000人とのお客様と触れ合うことができ、大変貴重な体験になったと、おっしゃっていました。
今回一緒に匠コーナーで展示している矢鋪さんのお弟子さん「美紀さんの作品」
矢鋪さんの陶芸スタイル
これまでの人生を活かして
矢鋪さんの人生は決して平たんな物ではありませんでしたが、それらをすべて感謝の気持ちに置き換えて陶芸に挑んでいる姿は、「すごい」の一言に尽きます。
物事を「好き」「嫌い」「損する」「得する」で判断せず、人は一人では生きていけないということを軸において実践されているからこそ、矢鋪さんの周りには笑顔の人が集まってくるのかもしれません。
そんな矢鋪さんに、今後作っていきたいと思っているものは何ですかと尋ねたところ、「扁壺(へんこ)」をライフワークにしたいと、おっしゃっていました。
写真の壺も11年かかってようやく作れたものだそうです。
陶器にはない磁器特有の難しさがある中で作る「扁壺(へんこ)」。今度はどんな姿を見せてくれるのでしょうか?
記憶現象をいかに減らせるか
磁器の難しさ
磁器には記憶現象があると、矢鋪さんは言います。
平らな物を作っても、時間がたつと自然と外側が丸みを帯びて曲がってきたりする現象のことです。
記憶現象は個体差があるので、同じ時期に作ったものでも現れ方が違ったりします。ですが、たとえ違っていても同じ形に近いものを作り上げるのがプロの仕事だと、おっしゃっていました。
そして、プレスなどの機械で作った場合だと、記憶現象は起こらないため、手づくりなのか機械で作っているのかは、そこで判断できると教えてくれました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そんな矢鋪さんは、匠コーナー「手わざの白い風 矢鋪與左衛門・白須美紀子 師弟展」で7月5日までいらっしゃいます。
矢鋪さんの世界観、伊万里有田焼の世界観が気になった方は、ぜひお越しください。