匠を訪ねて~肥後象がん 究極のシンプルを追いかけて
2017年8月22日 青山スクエアで匠コーナーに出演中の麻生翼さんを訪ねました。
肥後象がん:麻生翼
肥後象がんは鉄砲や刀の鐔に使われていたのが始まりで、明治9年(1876年)の廃刀令以降は、装身具や装飾品など現在のライフスタイルに合わせたものへと変化を遂げています。
彫金から肥後象がんへ
アメリカ時代
二十代前半、麻生さんは日本で働きながら自分には何ができるかと模索している時、アメリカで彫金をする場所を見つけて渡米しました。
彫金の学校を卒業したと同時に、学校の先生の一人から声を掛けられ、その先生の会社で彫金の仕事をし始めたそうです。
日本にいた時は、それほど考えなかった地元熊本でしたが、アメリカにいると日本のことを聞かれることが多く、自分でも日本ってどういう国だったかと興味を持つようになりました。
そして5年間の滞在の後、日本への関心を強く持ったまま熊本県へと戻ったそうです。
熊本県、そして肥後象がん
地元である熊本県に戻ってからも、シルバーなどの彫金は個人的に作っていましたが、会社勤めという形ではなかなか見つけることができませんでした。
そんな時、肥後象がんの後継者育成プロジェクトのことを知り、参加をすることに。こうして麻生さんは、肥後象がんの世界に入っていったのです。
伝統技術の難しさと融合技術
布目切りの難しさ
アメリカでも金工品に携わっていた麻生さんですが、肥後象がんの基本となる、布目切りをマスターするのに苦労したとおっしゃっていました。
布目切りは、鉄の土台に施すもので、純金や純銀を鉄にはめ込むときに重要な役割を果たします。
1mmの間にどれほどの切れ目を入れられるかが大事なのですが、自身でマスターしたと思えるようになったのは、携わってから10年が過ぎた頃だったそうです。
二つの観点
麻生さんがアメリカで学んでいたのは商業的な彫金技術。そして、熊本で学んでいるのは伝統工芸の肥後象がんの技術。
片方は短時間で大量の物を作るためにどうしたらいいのかを考え、片方はいかに伝統的な技術を世に残していくかを考えるもの。
相反するものだからこそ物作りの選択肢となり、融合したり切り離したりと、他の人とは違う発想ができるそうです。
また、考え方だけではなく道具も同じ。アメリカで使っていた工具と日本で使っている工具、どちらも使えるため、これを作るときには、こっちの工具にしようという選択もでき、よりいいものを的確に作っていけると、おっしゃっていました。
一点の光の中で
麻生さんが追い求めるもの
これからも追い求めるのは、何にでも合わせられるものだそうです。
工芸士であって作家ではない麻生さんは、自分の評判や複雑な装飾に興味はありません。いかにシンプルに作り、いかに完成度を上げて作ることができるのかに意味があるそうです。
また、豪華なものや加飾されたものというのは際限がありませんが、シンプルさにも同じことが言えると、おっしゃっていました。
どこまでそぎ落としていったとしても、そこが最終地点かというと首をひねります。豪華なものにも最大限という最終地点はありませんが、シンプルという最小限にも最終地点はない。だからこそ、目指すだけの価値があるのかもしれません。
肥後象がんの世界に染まりながら
自然のものに心を打たれる日々
最近、目につくものが草木や虫など自然のものが増えてきたそうです。
麻生さんの作品は、身近なものをデザインしたものが多く、自分の目に見えるものを象がんの技術を使って表現しているのでしょう。
また、麻生さんが作ったものは、日本人だけではなく海外の人にも人気があります。技術や道具だけでなく、感性も東洋と西洋が融合しているのかもしれません。
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今回お話をしていただいた麻生翼さんは、
匠コーナー「熊本 肥後象がん展 震災を経て、今」にて8月18日から23日まで実演をしていました。
熊本県内やその他の場所で実演をしたりもしていますので、見かけたらぜひ声をかけてみ下さい。肥後象がんのことを詳しくお話しして頂けますよ。