都城大弓

鹿児島成(なり)の流れをくむ大弓で、江戸時代後期には盛んに作られていたことが記録に残っています。明治時代に入り、川内地区から来住した楠見親子が多くの弓作りの職人を養成しました。豊富な原材料に恵まれたこともあって、昭和初期には、東アジアにまで製品が売られるような大産地になりました。
戦後、低迷期がありましたが、最盛期には30人近くの弓作りの職人が活躍していました。現在でもわが国で唯一の産地として竹弓の9割を生産しています。

  • 告示

    技術・技法


    乾燥は、自然乾燥によること。


    竹は「火入れ」をすること。


    「弓芯」の加工は、次の技法によること。

     
    (1)
    竹を「側木」で挾んで張り合わせ、なわ等とくさびで締め付けること。

     
    (2)
    弓の上部及び下部は、握りの部分より薄くなるように削ること。


    「弓竹」の加工は、次の技術によること。

     
    (1)
    内側が節が六つ、外側は節が七つの竹で構成すること。

     
    (2)
    弓の握りの部分を上部及び下部より0.4ミリメートル程度厚くして仕上げ削りを行うこと。


    「打ち込み」は、次の技法によること。

     
    (1)
    「弓芯」を「弓竹」で挾み、「額木」、「関板」を付けること。

     
    (2)
    弓に添え竹をして、なわ等で巻き、くさびで締め付けながら半円状に反りを付けること。


    「張り込み」は、次の技法によること。

     
    (1)
    「額木」及び「関板」に「ゆはず」をつくり、張り台に半日程度かけること。

     
    (2)
    足で踏んで弓型を整えること。


    仕上げは、「額木」及び「関板」に仕上げ磨きし、「握束」等に「籐巻き」をすること。

    原材料


    使用する竹材は、マダケ又はこれと同等の材質を有するものとすること。


    使用する板材は、ハゼ又はこれと同等の材質を有するものとすること。

  • 作業風景

    質実剛健、実戦性にすぐれた薩摩弓の流れを汲む都城大弓は、時代の流れとともに、竹弓ならではの気品ある曲線の美しさや、次代に引き継ぐべき伝統工芸品としての価値がますます注目されています。
    都城大弓の伝統とその”粋の世界”は的を射ることがすべてではない、弓道家の魂に響く名品なのです。
    都城大弓の素材は、都城の温暖な気候と豊かな自然が育んだ真竹と櫨(はぜ)です。これを幾層にも貼り込んで作り上げる大弓の工程は200以上もあると言われます。そして、そのすべてを一人の弓師が手仕事で仕上げています。
    矢飛びの効率にすぐれ、弦(つる)の収まりが良いという特徴とともに、竹弓ならではの気品を備えた都城大弓。矢を放つ瞬間の澄みわたる弦音(つるね)を思い描きながら、弓師たちは雄大な霧島の麓で、一本一本の作品に丹精を込めて、作り上げています。
    ここでは、都城大弓の作業工程を大まかに解説いたします。

    工程1: 竹林

    都城のには、良質の竹が成育しています。大弓の材料は豊かな自然に育まれた3年生の真竹です。

    工程2: 真竹の切り出し

    竹を切り出す時期は、11月から12月の寒い時期です。この寒い時期の竹は、渇水期に入るために、弓の素材に使うには最もよい素材と言えます。弓竹に使う真竹は周囲が18~21cm、芯竹に使う真竹は30cm以上の2種類を切り出します。それらを小割りにした後、3~4ヶ月の間、自然乾燥させます。

    工程3: 弓竹の油抜き・乾燥

    弓竹を木炭であぶり、含まれている油分を拭き取ります。弓の内側になる竹は復元力をつけるために、室(むろ)でいぶし、煤竹(すすたけ)にします。煤を水洗いしながら、飴色になるまでその作業を1~2年間繰り返します。

    工程4: 弓竹、芯竹の火入れ

    反りを保つため、弓竹の外側は、竹の内側のみ、内側の竹と芯竹は両面を強く火入れして、焦がします。

    工程5: 弓芯の張り合わせ

    焦がした芯竹を4~7枚薄く削って、その両側を櫨(はぜ)の側木で包むように張り合わせます。クサビを打ち込んで、締めつけ、弓芯をまっすぐにします。経尺で糸の長さと重さを合わせた糸は八丁(はっちょう)という、よりかけ車を使ってよりをかけます。

    工程6: 弓竹の削り

    火入れした弓竹は、握りの部分を中心にして削ります。弓の両端になるほど少し薄くなるように、むらなく仕上げ削りを行っていきます。

    工程7: 額木(ひたいぎ)、関板(せきいた)の削り

    弓の上下の弦(つる)をかけるところで、内竹がずれるのを防ぐためのものです。上と下では反りが違いますので、その反りにあわせて仕上ます。

    工程8: 弓の打ち込み

    弓竹で弓芯を挟み、額木(ひたいぎ)、関板(せきいた)を付けて接着します。80~100本のクサビで締めつけながら、半円状に反りをつけて打ち込んでいきます。

    工程9: 弓の張り込み

    クサビをはずし、張り台で弓の型にしていきます。弦を付けて、上下の形などの出来具合を見ながら、足で踏んで、弓型を整えていきます。この荒張りで弓の良否が決まります。

    工程10: 弓の仕上げ

    荒削りした弓を10日ぐらい張り込んで、型の落ち着いたところで、握り、額木、関板の部分を鉈(なた)や小刀で、その弓にあった削り方をしていきます。

    工程11: 握束(しょうぞく)

    仕上がった弓をさらに張り込んで調整した後、籐巻きをします。

    工程12: 完成

    都城大弓はこのように200を越える工程を経て、手作業で作られ、完成します。

     

  • クローズアップ

    匠の技を継承し、“日本の心”今も息づく、都城大弓

    都城大弓は南北朝の時代からその伝統と技術が伝承され、古来では武士、現代では多くの弓道家から高い評価を受けている。
    尚武の国と言われ、鎌倉武士のの気風を明治になるまで保持していたとされるこの地方では、武道が奨励され、武道具の製造も盛んであった。

     

    「都城大弓」の由来

    都城は、中世に島津荘と呼ばれる国内最大の荘園を治め、後には薩摩藩主となった「島津家」の発祥の地である。古来より尚武の土地柄であった薩摩藩では、武道が奨励され、武具の製造も盛んに行われていた。なかでも、都城大弓の名声は高く、江戸時代初期にはすでにその製法が確立されていたと言われている。
    現在でも都城では、国内の竹弓の約90%以上を生産している。今回は、都城大弓製造の伝統工芸士である、御弓師(ごゆみし)の永野重次(ながのしげじ)さんにお話をうかがった。

    「都城大弓」の歴史

    永野さんの弓の作業場は、都城市街から車で20分ほどの、静かな場所にあった。永野さんは、いかにも伝統の武具を作る職人さんの風情を持つ、寡黙な人であった。その永野さんは訥々と弓の歴史を語ってくれた。「もともと武道が奨励された土地柄もありましたが、ここは良い品質の竹の生産地でもあったのです。江戸時代の文献にもそれは書いてあります。そして明治に入り、鹿児島から弓師、楠見氏が都城に来住し、多くの弟子を養成しました。今の弓職人はすべて直系にあたりますよ。また昭和の初期にはアジア諸国にまで販路を拡大したことで、弓の産地としての都城が確立されたのです。」

    自分の作業場での永野重次さん

    日本の精神と弓の関係

    『てぐすねをひいて待つ』という言葉がある。この言葉の語源、手薬煉(てぐすね)の薬煉とは、松脂(まつやに)と油を練り合わせた粘着材のことで、それを弓の弦(つる)に塗り、強度を高めていた。すなわち手に『くすね』を取り、弓の弦に塗って、敵を待つ様子から来ているのである。他にも、故事成語に弓に関する言葉は多い。それほど日本の文化・精神と弓は深い関係があったのである。永野さんは、「日本の古来からの精神を引き継いでいることに、誇りを感じる。」と語ってくれた。

    最終仕上げを待つ、都城大弓

    「ああ、こんたびは、よか弓ができたあ。」

    弓作りは、もちろんその全工程が手作りである。しかもその工程はすべて、弓師が一人で行う。
    「私も、もちろん、いい竹を求めて竹林に入って行きますよ。弓の内側、外側、その他各部分で使う竹は違います。竹を切り出す時期は、11月から12月頃まで。この時期は、竹の渇水期に入るので、弓作りには最もいい時期なのですよ。そりゃ寒い時期ですが、いい竹を見つけたら、嬉しいし、寒さを忘れるほど燃えてきますよ。」と永野さん。「その後、数多い工程を経て、弓ができるわけですが、弓は生き物ですので、愛情を持って、自分の全身全霊を賭けて作らないと、人様にお見せできるような弓は作れませんね。」
    もし気に入らない弓ができたらどうするのか、質問をしてみた。しばらくの沈黙のあと「叩き割っと。(叩き割るのです)」という返事だった。丹精込めて作った弓には、一本一本製作者の名前が彫り込まれるのである。恥ずかしいものは、世間に出せないという職人の意地なのであろう。
    「では、自分でも納得できる弓が完成したら、どんな心境なのですか?」という質問に対して、それまで、隣で静かに話を聞いていた永野さんの奥さんが、
    「『ああ、こんたびは、よか弓ができたあ。』と嬉しそうな顔です。」と笑顔で答えてくれた。

    長年使ってきた愛着のある道具、鉋(かんな)

    職人プロフィール

    永野重次 (ながのしげじ)

    昭和12年生まれ。
    先代の跡を継ぎ、今年で大弓作り35年。

    こぼれ話

    都城の歴史と史跡

    都城地方が歴史上に姿を現したのは、8世紀からになります。当時、日向国には郡制がしかれ、都城地方は諸県郡(もろあがたぐん)に属していました。また、11世紀には平季基(たいらのすえもと)の開発により、荘園としての島津荘(しまづのしょう)がおこったといわれています。鎌倉時代の初めには、惟宗忠久(これむねのただひさ)が源頼朝より島津荘惣地頭職に任命され、のちに忠久は島津姓に改めました。この子孫がのちに南九州一体に勢力を持った島津氏です。
    室町初期になると、島津氏四代忠宗(ただむね)の子、資忠が当地を与えられ、資忠は領地にちなみ“北郷(ほんごう)”と改姓しました。以後、北郷氏は勢力を伸ばし、八代忠相(ただすけ)の時には、ほぼ都城盆地を統一。十代時久(ときひさ)の時には、勢力は最大となりました。豊臣秀吉の九州討伐後、北郷氏は配置変えにより、都城を追われますが、慶長4年(1599年)に起こった庄内の乱後、北郷氏は都城に復帰しました。
    近世には、当地方は薩摩藩の私領として都城島津(北郷)氏により、統治され、藩主に次ぐ禄高、また本藩同様の職制機構を持ち、領内に地頭を置いて支配していました。また、幕末の戊辰の役には、本藩に従い、都城隊士182名が参戦しています。さらに西南の役でも1,550名が西郷軍の一員として参戦しました。
    明治4年の廃藩置県に伴い、当地方には都城県が置かれましたが、一年余りという短期間でした。
    明治16年には宮崎県に組み込まれ、明治22年に都城町となり、大正13年4月1日に市制が施行されました。その後、沖水・五十市・志和池・庄内・中郷の各町村を合併、現在にいたっています。

    • 都城駐屯地(郷土館)

     

概要

工芸品名 都城大弓
よみがな みやこのじょうだいきゅう
工芸品の分類 木工品・竹工品
主な製品 弓道具
主要製造地域 都城市、北諸県郡三股町
指定年月日 平成6年4月4日

連絡先

■産地組合

都城弓製造業協同組合
〒889-1901
宮崎県北諸県郡三股町樺山3987-2
TEL:0986-52-2040
FAX:0986-52-3719

http://www.miyakonojyo-yumi-kumiai.com/

実店舗青山スクエアでご覧になれます。

特徴

弓は外側に7つ、内側に6つの節で構成され、形が決められます。弓の形は弓作りの職人によって異なりますが、上下の重さが釣り合っていて、弓を射るときの弓返りのときの重量の配分と重心を考えた弓が、良い弓です。

作り方

マダケとハゼで出来た弓芯を2枚の弓竹で挟み、額木(ひたいぎ)、関板をつけて接着したものをロープで巻き、クサビで締め付けながら、半円状に反りを付けて打ち上げます。張り台にかけた後、足で踏んで弓型を整えていきます。

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