匠を訪ねて~天童将棋駒 作り続けることで見えてきた目指すべき理想の駒
2016年7月19日 青山スクエアで制作実演中の桜井亮さんを訪ねました。
天童将棋駒の匠:桜井亮さん
天童将棋駒は産地として将棋を作っている日本唯一の駒の伝統的工芸品。
東京、大阪、新潟などでも活発に作られていた時代もありましたが、現在、将棋駒の伝統工芸士は山形にしかいません。天童将棋駒は、木地作りをする人、駒彫りをする人、駒書きをする人と、分業して一組の駒を作っていくのが一般的です。
この世界に入ったきっかけ
父に勧められて
学校を卒業し、とくに何をするのかを決めていなかった桜井さんに、すでに天童将棋駒の世界にどっぷりと浸かっていたお父様が声をかけてくれたのが、きっかけだったそうです。
お父様は、桜井さんが生まれた頃には、天童将棋駒の世界にいました。
お父様は家の中に工房を作っていたので、桜井さんの近くにはいつも天童将棋駒がありましたが、お父様は後を継いでほしいとは言いませんでした。
お父様が始めた天童将棋駒の仕事は、自分の代で終わらせるつもりでいたのです。
世襲制の概念のない天童将棋駒
天童将棋駒は、幕末から作り続けられていますが、その当時から世襲制という考えはなかったと言われています。たとえ後を継いだとしても、二代目ぐらいまでで、三代目を継いだという話は聞かないと、桜井さんはおっしゃっていました。
作り手の名前が将棋駒のブランド名になり、それが将棋の世界に知れ渡り、公式戦などで使われる駒へとなっていくそうです。
天童将棋駒の作り手は、匠であると同時に作家でもあるため、自分のオリジナリティを追求していく伝統的工芸品。他の伝統的工芸品とは少し、毛色が違います。だからこそ、お父様も桜井さんに跡を継いでほしいという考えが、なかったのかもしれません。
この業界に携わる中で
右も左もわからない天童将棋駒の世界
同じ家でお父様が作っていたとはいえ、作業場には足を入れることを禁止されていました。そのため、実際にどうやって作っているのかを知らなかった桜井さんは、作業の仕方にとても戸惑ったそうです。
彫刻刀で文字の部分を削るだけと言っても、学校で使うような彫刻刀の使い方では文字は彫れません。将棋駒を写真のようなフリップに挟んで、左手で支えながら右手で彫刻刀を持って削っていきます。
普段からこういった彫刻刀の使い方をしている人は、ほとんどいませんよね?真っ直ぐに「一」と綺麗に彫るのにも、一年はかかってしまったそうです。
作った天童将棋駒が売れるようになるまでの期間は?
桜井さんに実際に商品として、売れるようになったのはいつぐらいからですかと聞くと、高級な盛上駒が初めて売れたのが7年経った頃だと教えてくれました。
7年作り続けてようやく、周りからも認められるようになったそうです。
20年この世界にいてわかってきたこと
自分の成長を感じる瞬間
気が付くと、天童将棋駒の世界に入って20年が過ぎていたという桜井さん。始めたばかりの頃と、変わったことがありますかと聞くと、見えているものが違うと答えてくれました。
始めたばかりの時は、がむしゃらに頑張るだけで毎日が過ぎて行っていましたが、この頃は自分の作る駒に対して、もっとこうすればいいものが出来るのではないかということが、解ってきたと言います。
例えば、もっと文字の表現の仕方に工夫が出来るのではないか、もっと彫りの制度を上げることができるのではないか、などだそうです。
ですがそれは言い方を変えると、桜井さんの中で理想とする駒の姿が見えてきたからこそ、分かる課題。桜井さんはそれだけ真摯に将棋駒と向き合っているのだと思います。
きっかけは軽い気持ちだった桜井さんでしたが、今は指が動く間はずっと作り続けたいとおっしゃっていました。
将棋を買っていく人たち
変わらぬ愛好家に求められて
現在、将棋駒を購入する人はどんな人ですかと聞いたところ、プロの人はもちろんですが、9割は愛好家の人だと教えてくれました。
伝統的工芸品は昭和に比べると、購入者が減ってきているのが現状ですが、将棋に関して言えば、昔も今もそれほど数は変わっていないそうです。
独特な世界だからこそ、愛好家は絶えず一定の人たちがいるのかもしれません。
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今回取材をさせて頂いた桜井さんは、特別展「産地選抜 第3回 DENSAN ザ・職人展」に出展されていました。
また桜井さんの情報が載っているHPは下記です。
掬水の駒 http://www15.plala.or.jp/kikusui50/
http://kikusuinokoma.blog.fc2.com/