久留米絣

福岡県

19世紀初めに、一切れの木綿の古い布のかすれた糸をヒントに、12歳の少女によって始められました。
その後、現在の福岡県南西部にあたる久留米藩が産業としての奨励したことに加えて、絵絣技法や、小絣技法といった改良工夫によって、久留米絣は、大柄小柄絣、そして絵絣等、他に類のない特徴的な技術を持った木綿絣産地として発達してきました。

  • 告示

    技術・技法


    次の技術又は技法により製織されたかすり織物とすること。

     
    (1)
    先染めの平織りとすること。

     
    (2)
    かすり糸は、たて糸及びよこ糸又はよこ糸に使用すること。

     
    (3)
    よこ糸の打ち込みには、「手投杼」又は「踏木による飛杼」を用いること。


    かすり糸の染色法は、「くくり」又は「織締め」によること。

    原材料

    使用する糸は、綿糸とすること。

  • 作業風景

    久留米絣のできるまでを見ていきましょう。

    工程1: 柄つくり(図案)

    絣のデザインイメージを描きながら、図案を作ります。経験と熟練を必要とする大切な制作過程です。

    工程2: 絵紙(えがみ)

    図案に合わせて、経緯(たてよこ)の配分数を決め、その寸法、羽数を記入していきます。この時、下絵をかねて書くこともあります。

    工程3: 経尺(たてじゃく)づくり

    絵紙に基づいて、くくる幅を5~6ミリの竹ひごに、墨で印をつけたものが経尺(たてじゃく)です。模様に合わせてそれぞれの尺を作って使用します。

    工程4: 下絵(したえ)

    絵紙に合わせて、緯(ぬき)の縮み具合を考慮しながら、絣模様に書き直していきます。

    工程5: 絵糸書き(えいとがき)

    緯(ぬき)の縮み歩合を計算した下絵によって、緯糸(ぬきいと)を括る(くくる)時の案内役となる絵糸を作ります。

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    工程6: 経(たて)はえ<整経>

    柄模様に合わせて、経糸(たていと)の絣糸と地糸の糸数を割り出して、大枠(おおわく)に巻き取ります。

    工程7: ぬきはえ(整緯)

    緯糸(ぬきいと)は20本単位で、経(たて)の長さのなかにある柄模様の数に応じて整えます。

    工程8: 糸たき(精練)

    糸を強化し不純物を取り除くため、糸を入れ煮沸させます。

    工程9: さらし(漂白)

    さらし粉の上澄液に重炭酸ソーダを加えた溶液で糸を漂白します。

    工程10: のりづけ

    糸の乱れを防ぐために、うすい麩糊(ふのり)をつけ、天日に干します。

    工程11: 手括り(てくくり)

    絣模様の区分に分けられた経糸(たていと)を均等に張っていきます。この経糸(たていと)に経尺(たてじゃく)をあてて、くくる部分に墨をつけ、粗苧(あらそう)で括ります。緯糸(ぬきいと)は絵糸と一緒に整えているので、絵糸の印の部分を経糸(たていと)と同じようにして括ります。微妙な手際が仕上がりに影響を及ぼしますので、大変な熟練を要します。

    工程12: 藍建(あいだて)

    徳島産の上質の藍を使って、一週間から10日かけて醗酵(藍建)させます。

    工程13: 藍染(あいぞめ)

    藍甕(あいがめ)は8~12本並んでいて、染める時は濃度の低い下藍(じあい)から中藍(なかあい)、上藍(うわあい)へと順次連続して染めていきます。染めた糸かせは、その都度よく絞り、たたきます。これは“くびりきわ”がよく染まるよう糸をふくらませ、空気に触れさせることで、藍の酸化を助ける目的があります。

    工程14: 水洗い

    藍染のとき糸についた不純物と、余計なアクを抜くために水洗いします。

    工程15: 絣解き(かすりとき)

    染め上がった糸を水洗いし、糸が乾燥しないうちに粗苧(あらそう)を手早く解きます。

    工程16: 水洗い・漂白

    絣解きの後、一昼夜ほど水につけてさらします。

    工程17: 糊付・乾燥

    糸の毛羽立ちや乱れを防ぐために、うすのりをつけ、天日に干し、乾燥させます。

    工程18: 経割(たてわり)<柄合わせ>

    それぞれの糸篠を柄模様に合わせながら、束ねていきます。

    工程19: 糊付・乾燥

    のりをつけて水を切り、温かい内に素早く糸を張って乾燥させます。糸毛羽や絣乱れ、糸乱れ等を防ぐと共に、製織をしやすくするためです。

    工程20: 割り込み・筬通し(おさとおし)

    絵糸で割り出した糸数に従って、絣糸と地糸を並べます。並べた糸を、一方から筬羽(おさば)を一つ一つあけながら、一羽に2本ずつ通していきます。

    工程21: 経巻(たてまき)

    経糸を巻く巻箱を巻経台に固定し、経糸の先を結びつけ、きれいな絣の経の柄模様を作っていきます。

    工程22: あぜかけ<綜絖通し(そうこうとおし)>

    経糸(たていと)は巻箱に巻き取ったあと、筬羽(おさば)から糸を一羽ずつはずし、上下に分かれた綜絖(そうこう)にそれぞれ一本ずつ分けて通します。

    工程23: 機仕掛(はたしかけ)

    綜絖および筬に通した糸を、手織りに備えて手ばたに仕掛けます。

    工程24: 緯割(ぬきわり)

    絵糸を取り除き、糸篠(20本単位)に割きます。

    工程25: 枠上げ

    20本ごとに分けた糸を緯取枠(ぬきとりわく)に巻き取ります。

    工程26: 管巻(くだまき)

    緯取枠(ぬきとりわく)から糸を杼(ひ)に入れる竹管(たけくだ)に巻き取ります。

    工程27: 手織り

    投杼機(なげひばた)という織機を使います。杼で緯糸(ぬきいと)を通して、経糸(たていと)の柄模様に緯糸(ぬきいと)を合わせ、筬(おさ)をトントンと打ち込みます。綜絖(そうこう)の高さ、足の踏み加減、筬(おさ)の打ち具合によって製品の良し悪しが決まるため、手織り技術は相当の経験を必要とします。

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    工程28: 乾燥

    できあがった織物を湯通しをして、竿にかけて日陰干しします。

    工程29: 整反(せいたん)

    幅や仕上がりを調べながら、所定の長さに切り、四つ折りに整反します。

    工程30: 検査

    できあがった製品は、久留米絣協同組合で検査を受け、製作者が責任証紙を反末に貼り付けます。

     

  • クローズアップ

    ゆったりと呼吸をしている、久留米絣

    丹念に織り込まれた模様と、ていねいに染め上げられた藍色が醸し出す素朴で、あたたかな風合い。久留米絣の魅力はその素材感にある。およそ200年という長い時の流れのなかで磨かれ、受け継がれてきた技と美しさは、忙しい現代人にゆったりと呼吸をする大切さを教えてくれるようである。

     

    久留米絣の生みの親”井上伝”

    久留米絣は、寛政の末(1800年頃)、久留米のお米屋の娘として成長した井上伝(1788~1869年)という女性によって考案された。ある日、伝は衣服が何度か水をくぐって色あせたところに、白い斑点がついているのに気づいた。粗削りな美しさを持ったその斑点に魅せられた伝は、持ち前の探究心が沸き立つのを抑えることができなかった。急いで、その衣服を解き放し、糸の白黒にならって白糸でくくった。そして、これを藍汁に染めて乾かし、そのくくり糸を解いてみたのである。それを機にのせてみると、白い斑点が数百点布面に現れ、不思議な魅力を持った新しい織物が生まれたのである。この織物は所々かすれたように見えることから「加寿利」と名付けられた。これが久留米絣の始まりである。
    手くくり藍染め手織りの技術は、筑後全域にひろまり、伝亡き後もさらに発展、昭和32年には国の重要無形文化財の指定も受けている。
    200年の歴史を持つ久留米絣の伝統を、今も頑なに守り続ける「括り(くくり)業」の伝統工芸士深町繁登さんにお話をうかがった。

    この道一筋50年のベテラン職人深町繁登さん

    久留米絣は人間と機械と糸のおりなすハーモニー

    春の暖かい日、深町繁登さんは自分の仕事場で黙々と仕事をしていた。忙しい中、仕事の手を止めいろいろとお話を聞かせてくれた。深町さんは昭和5年生まれで、約50年近く久留米絣に携わっていることになる。本当は、地元の工業学校を出て長崎の造船会社に就職が決まっていたのだが、親戚のおじさんが「何で長崎まで給料取りにいかないかんか。地元の産業の久留米絣をやれ。」と半ば強引に引っ張られ、そのおじさんの門下に弟子入りしたわけである。当時の”括り機”は電力ではなく、人力であった。朝から晩まで、”括り機”を踏み続けなくてはいけない、大変な重労働なのであった。
    「おまけに19才になっても、給料はないんやけね。まあほんの小遣い程度はもらったけどね。」と深町さんは笑う。「この”括り”の場合、他の職人は知らんばってんが、一個一個が複雑で難しかせん、おじさんは、手取り足取り丁寧に教えてくれたよ。やけど、あまり憶えが悪かったら、すぐゲンコツが飛んできよったねえ。そんな修行時代が4年くらいあったかね。もともと機械が好きやったけ、この仕事もつらいと思ったことはあまりないね。だけど、たまに今でもあるけど、なかなか糸が言うことを聞いてくれんことがあるとですよ。そんな時はつらいね。何回やっても思うようにいかず、『あ~もう、腹ん立つ』と思うけどね。でも機械も糸も生き物やけんが、いつも機嫌よういくとは限らんよね。絣は”機械”と”糸”と”人間”がうまく調和せないけん仕事やけんね」と深町さんは、もう30年近くも動き続けてくれている、括り機を愛しそうに見ながら笑っている。たぶん久留米絣の持つ素朴さは、深町さんのように、機械と糸にたっぷりと愛情をもつ人達の気持ちの表われなのかもしれない。

    複雑で細かな柄を織る際は、今でも活躍する“人力括り機”

    「職人の名誉は、『あの人にたのめば間違いない』と言われることやろね。」

    深町さんは70才を過ぎても、もちろん現役である。今も図案デザインから”括り”まで、大忙しである。その深町さんが胸を張って語ってくれた。「職人の名誉は金じゃなかね。仕事をくれる人つまり、わたしらから言えば”機屋(はたや)”さんがね、『あの人にたのめば、間違いない』と言ってくれると、本当に嬉かねえ。特にこの括りの仕事は、久留米絣の基礎工事やけんが、誇りを持っちょりますたい。機屋さんが、『この仕事は難しかけん、深町に括らせなたい』と言うてもらったら、もう金じゃなかろうもん。『よっしゃ。任せんね。』と気合いが入るよね。」と深町さん。
    金沢に旅行した際に偶然、自分で図案をデザインし、自分で糸を括った久留米絣の着物を着たご婦人に出会ったという。その時は、驚くと同時に、嫁にやった娘に会うような気持ちであったということである。自分が丹精込めて作った絣が、どんな経路でこの金沢に来たのかは知らないが、見ず知らずの人に大切に着てもらっている。「あの時は、嬉しかったあ。」と深町さんは満面の笑みで語ってくれた。愛情を込めたモノ作りをした人にしか感じることのできない、現代社会では到底経験することのできない、特別な感動なのかもしれない。
    「やけどね、後継者不足で寂びしかね。わしでよければ、どがん技術でも教えてあげるたい。久留米絣を21世紀にも22世紀にも繋げていきたい、それがわしの夢やけん。わしはこの久留米が好きじゃし、もちろん伝統の絣も郷土の誇りやと思っとるけん、死ぬまで現役を続けるつもりばい。」

    取材中も休むことなく動き続けていた”括り機”

    深町さんのご自宅の庭には、ツツジの花が満開であった。ツツジは久留米市の市の花である。久留米絣の伝統工芸士は、郷土を愛し、郷土の工芸を愛し、郷土の花を愛す人であった。

    職人プロフィール

    深町繁登 (ふかまちしげと)

    久留米絣図案・くくり伝統工芸士。昭和5年生まれこの道一筋50年のベテラン職人さんである。

    こぼれ話

    久留米絣の創成の歴史

    井上伝の誕生
    1788年12月29日、久留米藩の城下に一人の娘が誕生しました。それがのちに久留米絣を創始する井上伝です。父は米屋を営んでいました。伝は幼い頃から機織りが好きで、12~13才頃には上達して城下で織物を売りに出していました。

    久留米絣の創製
    このころ(1800年頃)、何度も洗濯して古くなった藍染めの着物がありました。ところどころ染料が抜けて白く斑点ができていましたが、伝はそれに疑問を持ったのです。一本一本の糸はどのようになっているのだろう?この疑問を放置せずに、実際に着物の糸を解いてみたことが、久留米絣を生み出すきっかけとなりました。伝は一本の糸に現れている白い部分と同じように、新しい糸を別の糸であちこち縛って、その部分が藍で染まらないようにして染めてみました。この糸で織り出したとき、その布面は寄観を呈したのです。これが久留米絣の始まりです。
    伝は、評判がよかったため、この織物に「加寿利(かすり)」と銘打って城下で売りに出しました。そして、15才の頃には伝の教えを求めて20数人が集まっていました。その後21才で結婚しましたが、結婚後も弟子の指導にあたり、「久留米原古賀織屋おでん大極上御誂(だいごくじょうおめし)」の証票を添付して売り出していました。
    1813年には、伝は斑紋しかできなかった絣に絵模様を織り出したいと苦心していましたが、当時、儀右衛門(ぎえもん)と呼ばれていた、田中久重に相談します。15才の久重は絣の板締め技法と考えられる絵形の組み方と器機を完成させます。この田中久重は幼少から「からくり儀右衛門」と称されてており、のちに大阪、京都に移り住んで、現在国立科学博物館に展示されている「万年時計」を始め、いくつもの画期的な発明をした有名な人物です。その後上京し、銀座の工場で電信機を製造し、電話機を試作したりしました。没後、跡を継いだ二代久重によって東京・芝に田中製造所が設立され、のちの「東芝」の前身になります。
    伝が、27才頃の時、3人の幼子を残して、夫が病死します。伝は3人の子どもを連れて生家の斜め向かいの小さな家に入り、弟子の指導を続けました。

    久留米絣業の成立
    1827年の伝40才の頃には、弟子は1000人にも及び、そのうちの400人ほどが各地に散らばり機業を開業しました。この時点で、久留米絣の生産が個人の趣味的生産から製造販売を目的とする自営業集団、つまり「久留米絣業」としての地位がとりあえず創成されたことを物語り、ここに久留米絣業(産地)の成立をみることができます。
    1857年の伝70才の頃、現在の久留米市大善寺町の有志が妻や娘への絣織の指導を頼んできました。今日のように交通の便はあまりよくはなく、通勤するには遠いことから、子女だけを伝のもとに置くことを躊躇し、出張教授を要請したのです。伝はすでに老齢でしたが、同地に赴き、しばらく滞在して指導しました。また現在三井(みい)郡大刀洗(たちあらい)町の庄屋からも同様の依頼を受けて数十人の子女を指導しました。織りの実地指導ではもはや力が出せないため、孫のトモを同伴して手本させたと言います。
    このように、伝は晩年を迎えても絣技術の指導に当り、その教えを受けた者は、数千人を数えたと言われます。こうして、久留米藩内(現在の久留米市・小郡市・八女市・筑後市・大川市・三井郡・三潴郡・浮羽郡)に機織りの音を聞かないところはないと言われることになるのです。

    • 久留米絣の生みの親「井上伝」肖像画(1788~1869年)

     

概要

工芸品名 久留米絣
よみがな くるめがすり
工芸品の分類 織物
主な製品 着物地、洋装、インテリア商品
主要製造地域 久留米市、八女市、筑後市、大川市、うきは市、八女郡広川町、三潴郡大木町
指定年月日 昭和51年6月2日

連絡先

■産地組合

久留米絣協同組合
〒839-0809
福岡県久留米市東合川5-8-5
久留米地域地場産業振興センター内
TEL:0942-44-3701
FAX:0942-44-3705

実店舗青山スクエアでご覧になれます。

特徴

絣は先染め織物の一種です。糸の段階で括(くく)りによる絣糸を作って染色し、織り上げていくため、デザインに深みがあります。素朴な織物で、着物、小物、インテリア用品等幅広く活用されています。

作り方

絣図案を作り、経糸、緯糸ごとに整経、絣括り、織締めの作業を経て、染色して作った絣糸を用いて、絣柄を手で合わせながら織り上げていきます。

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